2018年11月24日

香箱組んで眼を閉じて

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たっぷりの豆乳沸かしてココア入れ、シナモンシュガーを降りかけて・・・目覚めの胃腸を温めて今日も1猫写真をUP(ρω*)゜o。



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海水温の分布図と衛星画像を眺めつつ、陸地付近はもぉ既に24度を切っとるが果たしてこの後どうなるか。
27度の海水のラインも南下しとるのに、台風の雲の供給止まらんのなんでだろうなと思いつつ。
北海道でも長野でも火山もだいぶん騒いでて、もうすぐ終わりだってのに日増しに気が抜けない感が、天災人災ひっくるめ色濃くなってる2018年。
化け猫の野生のカンで視ていても、数字の色がなんでだかまっく欠片も掴めんの11,12月の謎なのだ(・ω・;)

ん〜・・・

太陽は晴れてもヒリヒリしておるし、月も明るく綺麗でもどこかスッと刺すような鋭い感じがあるんよな(・ω・`)



そんなこんなであるせいか、人心も乱れやすい時期からか、こないだ話した内容で。

『束縛する程の執着は、本当に好きってことなのか?』みたいな疑問のテーマがあったけど。

人間の『好き』だの『愛』だのなんてのは、言葉に乗って発される色も味も違い過ぎ傾向も統一感もなさ過ぎて。
実際どれが本物て、オイラにゃ視ててもわからない(°ω°;)


とりあえず『束縛』って部分だけ切り取れば、根っこの味は『不安・不審』の感情の『信用や信頼の無さ』のモノだから。

対象が自分には自分には不釣り合いと本人は思い込んでいて(要は自信が無さすぎて)、いつか失うもだって不安が薄々あるんだか。
対象が過去に裏切りしておって、そっから招く不審とか信頼置けない不安とかそういうもんがあるんだか。
それとも自分が手に入れた手段があまり良くなくて、同じことを他人からされるんじゃって不安とかそういうモノがあるんだか。

だいたいこの辺なのだけど、それを支える根底が『好きだから』って場合でも、ただ単に一方的な「所有欲」や「優越」や「支配欲」「征服欲」みたいな『欲』の部類でも。
とる行動は似てるから、それをやっちゃう本人が相当掘り下げ向き合って、『信用』や『信頼』をできない根源を自分の中に見つけなきゃ、絶対わからんところだし解決しないとこなのだ。

ただ人間がよく言う『愛情』が優しい明るいもんならば、この辺で湧き出す情動の色は真逆で苦いから。
「好き」でも「欲」でもどっちでも、その行動に向かっちゃう根っこは解消させないと、周り巻き込むドロドロで結局本人自体すら幸せとかではないよねと。


『執着』って部分で見るのなら、ただただ理由もないほどに『好き』ってだけの時もありゃ、そこに費やし積み上げた時間を無駄って思うのがただただ『受け入れがたくって(サンクコストって言うやつね)』縋ってるって時もあり。

前者でのめり込むのなら、本人ひたすら楽しいし周りにアホに見えてても良いんじゃね?って思うけど。

自分は『正しくやってきた』、ずっと『こんなにやってきた』、だから『報われるべきである(公正世界仮説って認知の歪みの一部だな)』とか『間違っているなどありえない(コレは間違ってても止めれない、官僚組織の呪いと社会の不幸の元のやつ)』。
みたいな脅迫観念で何かにずっと縋るなら、目的のための手段が本当に現実的であるのかも、そもそもソレが本当に自分のしたいことだかも最早わからん域だから。

本当は何がしたくって何を得たくて生きてるか、行動の動機や選択そのものが一方的な妄想の自分本位でないものか。
そういうところを視れないと、本当の欲しいモノのもいるモノも現実に必要な環境も、あらゆるモノを見落として不幸を招く元よねと。

後アレだ、執着にもそもそもそれ自体
『アレしたい』とか『欲しい』とか『ああなりたい』って方向のプラスのタイプの執着と、
『そんな結果はイヤだ』とか『ああはなりたくない』ていうマイナスを避ける方向の執着ってのもわるわけで。

ポチ助なんかで言ったらば、
「オイラァ神輿が大好きだ(・ω・+)」とか
「オイラァ音楽大好きだ(´ω`*)」や
「猫って全部がカワエエのぉ(´ω`*)」とか
「好きをカメラで切り撮るのも好きだ(・ω・)ノ」とか
「機械いじりはワクワクじゃぁ(・ω・+)」とか
「技術の吸収面白れぇ(・ω・+)」とか
「落ち葉いっぱい落ち着くわぁ(´ω`*)」とか
その他諸々好きなのは、全部前者であるけども。

次にやりたい事だとか、今作り上げてる基盤なら、反面教師を元にして
「そんな結果は視たくない」とか
「そんな行動した奴にオイラァなりたく無いんでい」ていうよな部分が優勢で。
嫌な結果になるんなら、自分で切り抜けやったらぁ(・ω・)ノ が何より優先的だから、見事後者であるんだが。

マイナス執着起点でも、実際それでもやることに上の要素もあるわけで。
ソレらを上手くミックスし楽しみながらいけるなら、後者が根拠になっててもオイラはダメとは思わんし。
なんやかんだで問題を自力でクリアすることが、そもそもオイラにゃ楽しいしソコは前者寄りだわな。

だから執着で気を付けなきゃところって、『〜でなきゃいけない』だとか『べきである』とかそうやって、
自分や他人を縛り付け身動き取れなくするような、『強迫観念』めいたのがあるかないかのとこよねと。


この辺は周りがヤベーと思っても、本人がそれを指摘され受け入れ見つめられるかは、かなりハードル高いから。
『私が変えてあげなくちゃ!』なんて使命感を持っちゃうと、相手が視えなくなりがちで。

「本当は幸せじゃないんでしょう?」
「きっと自信がないんでしょう?」
「心の闇があるんでしょう?」、
「アタシはソレがわかるから、話してくれてもいいじゃない」
なんてグイグイ来られたら、自分でも話したくなくなろう?ってことなのに、その辺見失うよねと。

後アレだ、話したい相手を選ぶのも、そもそも言うか言わんかも、相手が選んで良いことで。
強制するのは違うのも、わが身の事で考えりゃすぐに違うてわかるねと。

自分がかかわる人達は、みんないつでも楽しくて『幸せであるべき』なんてのも。
相手への思いやりからの行動自分はしてあげてるんだから『相手は応えるべき』だとか『拒否をするのは酷い』とか。
そういう思考の根底も、『良心』からのつもりでも実は強迫観念のベキ論で不満や不安を招く方の執着めいたものだから。

人のフリ見てなんとやら、モヤモヤ納得できんなら『自分はそもそもどうなん?』って振り返るきっかけもらったと、そういう視点もあるよねと。

好きも嫌いも執着もソレがまったく無かったら、人間らしい感情の原動力も枯れちゃうし、全く無くさないかんとかそんな訳でもないもんで。
自分自身がモヤモヤと行き詰ったと思ったら、そういう要素が根にないか見直しできれば良いところ。

オイラァ自由な猫だから、自分が束縛されるのは真っ平御免なんだけど。
他者まで巻き込み不幸への蟻地獄化をしてなけりゃ、全部が全部ダメだとかそういうもんでもないのよな。


一見不幸な行動も、他者を巻き込むドロドロも、心底楽しんでるような獲物を狙う蛇のよな色の人物なんてのも、残念ながら現実にゃ一定割合おるもんで。
オイラが「生ける悪霊」って言っちゃうような人達が、正にソレであるんだが。
不幸なネタを話すとき心底嬉しそうならば、そういう人はその場所が快適なのだしそのへんは、極力被害は減らしつつお互いに棲み分けする以外ないのよなぁって思うのだ。
posted by ノラ猫ポチ at 08:36| 路地猫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする